2015/01/10

私のマンション履歴 中野編(1)

<はじめてのマンション>
 
 私は、今でこそ一級建築士・技術士(建設部門・都市計画)など建築関係の資格を取り、経験も積みましたが、はじめて中野のマンションを買った当時は、内装デザインの仕事をしており、建築やマンション管理にはそれほど詳しくありませんでした。(平成26年度はマンション管理士の資格も取りました。)

 昭和53年2月から中野のマンションを買うまでの3年間は、吉祥寺の2階建鉄筋コンクリートの古いアパートの2階部分を借りていました。夏は陸屋根からの輻射熱が厳しく、冬は結露が激しく、お風呂もなく、快適な生活にはほど遠い環境でした。ただ吉祥寺の街が好きだったので、このアパートから新婚生活をスタートさせたのです。(閉店間際のお風呂屋さんにしょっちゅう駆け込んでいました。)

 当初、夫婦二人で働いていたので、ときどき海外旅行をしようと貯金をしていました。ところが、当時は、残業も多く日曜も休めない(土曜が休日になったのはずっと後のことです。)仕事でしたので、簡単には海外旅行に行けなかったのです。

 そのうち、貯金も増えてきて、家賃で住宅ローンが返せるほど頭金が貯まってしまったのです。それなら、家を買おうということになりマンション探しを始めました。最初は、手探りの状況で住宅雑誌などを読みあさり、「百文は一見にしかず」の言葉通り、とにかく物件を見てまわりました。最初は同じように見えたマンションも、見た回数に応じて、不思議と違いがわかるようになってきました!後の買い替えのときも、同じように一物件でも多く貪欲に見てまわりました。
 
 はじめての中野マンションは、昭和55年6月、27歳のときに契約しました。場所は、地下鉄丸の内線中野富士見町駅から徒歩7~8分のところでした。規模は、店舗4戸・住居36戸の計40戸で、住居のみのマンションであったなら理想的な規模だったと今でも思っています。
 
 売主は、親会社が建設業を営んでいる八王子の不動産会社で、販売代理店は、西新宿の賃貸ビルの一角にある小さな宅建業者でした。その不動産会社の親会社がこの中野のマンションを建築しました。いずれも、それまで聞いたことのない会社ばかりでした。

 その当時、一般的に間取りや仕上げの変更はできなかったのですが、私たち夫婦は、内装デザインの仕事をしていたので、自分たちで図面を描いて、仕上げ材のほか建具や間取りまで変更(2DK→1LDK)させてもらいました。ところが、木目仕上げ(染色仕上げ)の内法材(うちのりざい)を塗りつぶされてしまい、建築会社の所長と夜遅くまでかかって「手直し」したことを思い出します。

2015/01/09

私のマンション履歴 中野編(2)

<やっとの思いで・・・>
 
 私たちがはじめてマンションを買った当時(昭和50年~60年代)は、高度成長期の真只中、マンションは売り出せば即完売という時代でした。数多くの物件に挑戦しましたが、私たちが買える価格帯は一番競争が激しく、箸にも棒にも引っかかりませんでした。
 
 それでも、中野のマンションは先着順だったので、「今度こそ」の一念で、3日前から、昼間は妻が、夜は私が並びました。(若かったのと初夏だったから耐えられたと思います・・・でも、そのとき一緒に並んだ方と、同志のような親近感が湧いてきて、入居後も親しくさせていただきました。)

 その甲斐あって、今度は、契約まで漕ぎ着けることができました。とにかく、住宅を手に入れるのは本当に大変な時代でした。お金は勿論のこと、体力と忍耐と運の必要な時代でした。

2015/01/08

私のマンション履歴 中野編(3)

<狭いながらも楽しい我が家>
 
 昭和56年の春、私たちは、新婚時代を過ごした吉祥寺のアパートから、待望の中野のマンションに引っ越しましたが、吉祥寺に比べて周辺に洒落たお店が少なく、少しカルチャーショックを受けたことを覚えています。
 
 それでも、住めば都、近くの下町風の川島通り商店街で買い物をしたり、貴乃花部屋(現二子山部屋)のある中野新橋や方南町あたりまで食事に出かけたりしているうちに、それなりに楽しく暮らせるようになりました。(今もあるかなあ?焼肉段々亭、レストラン葡萄屋、クレソン、支那そば華・・・etc)
 
 何よりも嬉しかったのは、それまで、吉祥寺駅から四谷駅まで地獄の通勤電車(快速中央線)だったのが、今度は、中野富士見町駅始発の電車で座って通勤できるようになったことでした。それと、近くに洒落た店が少ない代わり、新宿まで電車でもバスでもどちらを利用しても、15分程度で行けたことでした。(本当に交通の便の良いところでした。)
 
 そのほか、吉祥寺にいたときは、終電に間に合うように必死で帰宅していましたが、中野に引っ越ししてからは、都内のどこからでもタクシーで安く帰れるので、心置きなくお酒が飲めたこともハッピーでした。(奥さんには内緒!)

2015/01/07

私のマンション履歴 中野編(4)

<理事に就任>
 
 私たちは、マンションを買うにあたって、いろいろな本を読み、いろいろなことを勉強しました。その中の一つに、「マンションは管理を買え!」という教えがありました。そのときは、そういうものかと漠然と思っていましたが、数年後、このことを身に染みて味わうことになったのです。
 
 マンションの管理会社は、契約時点から決まっていて(どこでもそうですが・・・)、「マンション管理は、〇〇(株)と契約しています。」と販売会社から案内されました。私は、マンションを買ったとき、販売代理店から理事になってほしいと依頼されて、無役の理事を引き受けていました。

 ところが、一年経っても、二年経っても、総会どころか理事会すら開らかれず、妻が「これは、おかしい?」と、しつこく私に言うようになりました。私は、仕事が不規則で忙しかったのと面倒臭いこともあって、正直、その当時はマンション管理に熱心になれませんでした。このことが原因で何度も夫婦喧嘩をすることがありました。

2015/01/06

私のマンション履歴 中野編(5)

<管理費が消えた>
 
 総会・理事会が開かれないまま、管理人(住み込みで、感じの良いご夫婦でした。)さんが2度目の手術をすることになりました。理事長から、「前回のときと同様に各階の理事が見舞金を徴収してほしい。」と電話で依頼されましたが、私は、「管理人さんへの見舞は良いが、理事会・総会が開かれないのはおかしいのでは?」と、訴えたところ、酒に酔っていたせいか、捨てぜりふを吐かれ電話を切られてしまいました。
 
 そのようなことがあってしばらく後、理事長から、「管理会社に管理費を使い込まれた!」と、「ボソボソッ」と電話がかかってきました。(ほら、言わんことではないか!怒り心頭だ!)
 
 管理会社の社長(実は、法人は嘘で社員が一人もいない個人事業主だったのです。)を呼んで、問い正したところ、2百数十万円の使い込みについて謝罪しました。ところが、私が詳しく預金通帳や帳簿をチェックしたところ、その他に、2百数十万円の使途不明金があることに気付きました。
 
 さらに、問い詰めたところ、急に土下座をして、「ワァー」と泣き出してしまい、結局、450万円ほど使い込みされたのでした。(やられた!1年分の管理費に相当する額だ・・・)しかし、社長は返債のあてがないとのことで、我々も途方に暮れました。

2015/01/05

私のマンション履歴 中野編(6)

<ずっと理事>
 
 管理会社の社長(実は社長ではなかったのですが)が、管理費を使い込んだのは、ほかの事業で失敗し、資金繰りに困ってのことだったそうです。それでも、雇っていた管理人さんには、滞るときもあったようですが、給料は支払っていたようでした。しかし、美容院を経営していた奥さんとは、お金(負債)が原因で離婚していました。
 
 その別れた奥さんから、「自分が元夫の代わりに返債しますから、子供のために元夫を前科者にしないでください。」と、泣きながら懇願されました。我々も、刑事事件にしても何のメリットもないし、その言葉を信じて起訴することを止めました。結局、元奥さんが、月々7万円ほどの分割で何年かかっても全額返債することを約束したので、我々もこれを了承したのです。
 
 我々は、管理費が返債されるまで、この事件のことは一般組合員に知らせないことにし、その間、総会は開催せず、理事も交代しないことを決めました。マンションの管理についても、当分の間、管理組合の自主管理とし、管理人さんもそのまま管理組合が雇用することにしました。(後に、大手管理会社に委託しました。)

2015/01/04

私のマンション履歴 中野編(7)

<10年の月日>
 
 元管理会社の社長(実は社長ではなかったのですが)の元奥さんからの返済は、しばしば滞ることもあり、何回か催促することもありましたが、平成2年に、使い込んだ管理費を全額返債してくれました。本来なら、金利も請求できたのでしょうが、そのときは金利のことなど眼中になかったのです。
 
 しかし、返債には6〜7年かかりましたので、マンションに入居してから9年ほどの月日が経っていました。我々は、その間、理事会は開催していましたが総会は開催せず、理事も辞めませんでした。今、考えると、区分所有法(マンション法)違反だと思いますが、その当時は、そんな知識はありませんでした。私たちは、返債が完了するのを見届けて直ぐマンションを買い替えたので総会には一度も出席しませんでした。(その後、総会は開かれたと思います。)
 
 私たちは、マンションを買った当初から10年以内に買い替える予定でいましたので、返債の目処がついた平成2年の初めころには、次のマンション探しを始めていました。中野のマンションを購入したときは、年も若く資金もなかったので、一つのステップと捉えていました。(管理会社に使い込みをされることまでは想定外でしたが・・・)勿論、マンションのグレードも妥協せざるを得ませんでした。今度は、自分たちの理想に近いマンションを選ぼうと期待に胸を膨らませていました。
 
 私は、中野のマンションでの苦い経験から、マンションの買い替えにあたって次のことを肝に命じました。一つは、「マンションの質を重視すること」、二つ目は、「信頼できる企業が販売する物件から探すこと」でした。

2015/01/03

私のマンション履歴 中野編(8)

<建築士になりました>
 
 私は、中野のマンションに住んでいた10年間で、スキルアップと仕事のため、二級建築士・一級建築士・インテリアプランナー・一級建築施工管理技士と建築に係わるあらゆる資格を取りました。

 二級建築士の受験のときは、夜間、幡ヶ谷にあった二級建築士の受験専門学校へ夫婦で通いました。家族的な小さな学校でしたが、いろいろな職種の方と楽しく勉強ができました。おかげで、夫婦揃って一発で合格し、都庁へ登録に行った際には、担当者から、「夫婦揃っての登録は大変珍しい。」と、お褒めの言葉をいただきました。
 
 その4年後、今度も夫婦揃って一級建築士に挑戦することにしました。やはり、学校で勉強がしたくて、以前通っていた(二級建築士の受験専門)学校に頼み込んで、一級建築士の受験講座を開設していただきました。そうすると、二級のとき一緒に合格した何人かが自分もと申込んできて、総勢6名の講座となりました。

 おかげで、自信がないと言っていた妻は一発で合格しましたが、私は、学科は悠々合格したものの製図で不覚をとり、翌年、無事合格を果たしました。(夫婦揃って一級建築士は、おそらく貴重な存在だと思います。)

 その学校は、今はもうありません。主催者(校長)も平成26年に天国に召されました。(本当に、お世話になりました。私たちの建築の原点のようなところでした。)

2015/01/02

私のマンション履歴 中野編(9)

<買い替えスタート>

 私たちが次のマンション探しを始めたのは、平成2年の初めころからでした。私たちは、それまでに建築知識と経験を積み重ね、マンションの質を客観的に評価できる目を養ってきました。はじめてのマンションのときと比べて、その点が大きく違っていました。また、管理会社に使い込みをされた苦い経験から、販売会社の質にもこだわっていました。
 
 久しぶりに物件探しに奔走する日々が続きましたが、そのころは、バブル経済崩壊の寸前でしたので、どの物件も即完売し、価格もピークのときでした。さすがに、この時代は先着順というのはなく、ほとんどの物件が抽選でしたが、人気の高い部屋は100倍超というのも珍しくありませんでした。(今では、信じられません‼)それでも、自分たちの評価が低い物件には目もくれませんでした。
 
 言い忘れるところでしたが、はじめは、戸建てを探していました。はじめてのマンションでの苦い経験がそうさせたのかも知れません。ただ、我々が買えるクラスの戸建ては、都心からも遠く、建売りが限界でした。しかし、その当時の建売り業界の実態はひどいもので、建築確認の図面と実際に建てているものとが全く違うのでした。(現在は、このようなことは無いものと願っています!)
 
 建築確認の申請上は、建蔽率や容積率をクリアしていますが、現場は、申請よりも敷地を細かく分筆して、画地を増やし、法規を無視して狭い敷地に目一杯建物を建てていました。安くする代わりに販売戸数を増やして、利益を確保しようとする荒業を行っていたのです。勿論、建築完了検査は受けられませんから、検査済証はありません。これを買った人は、将来、自分で建替えるときに気づかされ、そのときになって後悔するのです。勿論、法令順守の良心的な建売り業者もいたと思いますが、私が係わった業者の多くは、残念ながらそうでした。

2015/01/01

私のマンション履歴 中野編(10)

<やっと当たった抽選>

 マンション探しは、価格の高騰で都内はあきらめざるを得なくなり、多摩川を渡ることにしました。(ああ!ついに都落ち)それでも競争は厳しく、抽選で外れっぱなしでした。とうとう、鶴見川まで渡ることになりました。
 
 そのような折、横浜の大倉山に、大手不動産会社(T社)が、自社シリーズのマンションを建設していたのでトライすることにしました。当時、大倉山と言えば、エルム通りと大倉山記念館が有名でした。エルム通りはギリシャ風(南欧風)のお洒落な商店街として、大倉山記念館はレトロなギリシャ風建築として、雑誌などで頻繁に取り上げられていましたので私たちも好感を持っていました。
 
 思いが通じたのか、今度は、当たりを呼び込むことができたのです。(マンションブームも既に峠を越していたので、倍率もやや下がっていたと思います。)このマンションは規模は小さいですが、「モダン和風のデザイン」で、「窓が多く明るく」「地下室のある壁式構造で地震に強い」こと・・・などから総合的に評価して買うことに決めました。また、「マンションは管理を買え!」との教えの通り、管理会社が最大手のTK社であったことも理由の一つでした。

 既に平成3年になっていました。さあ!買い替えのマンションが決まったので、次は、今のマンションを売らなければなりません。